アンコール小説 親愛なる者  その10

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 家族の絆は強くても、暮らす状況は今よりもずっと劣悪だった。飢饉に戦争。それらの殆どは為政者が造り出したものだった。飢饉でも通常と同じだけ年貢を納めなければならなかったし、戦争に狩り出され、命を亡くしたり怪我をした者は数限りない。天の邪鬼がそんな死者の思考エネルギーを取り込もうとすることは容易いことだった。
「人の数が少なくても、戦争が絶えまなく続いていたでしょ。そこに疫病です。恨みや未練を残したまま死んでしまった人間が絶えずいたんです。そんな時こそ私がエネルギーを溜め込むことができる絶好のチャンスなんですよ。敵意を剥き出したまま死んでしまうんですから。人間界の憎しみや妬みがそのまま天界に持ち込まれ、その途端にすぐに消滅するんです。楽しいですよ。こっちが努力しなくてもエネルギーがやってくるんですから。雄介さんもそろそろ消滅してみてはいかがですか。兄姉のことに気を揉むこともなくなりますよ」
 天の邪鬼は雄介に早く消滅してもらいたくて仕方ない。が、雄介は動じない。
「そんなにエネルギーが欲しいなら、他の思考を探したらどうだね。その方が手っ取り早いよ」
 雄介が言っても天の邪鬼はそっぽを向いている。他の思考エネルギーを探した方がエネルギーを早く溜めることができるのだが、みんなと同じことはしない、そこが天の邪鬼たる所以だからだ。雄介の思考に固執することを使命のように考えている。

 翌日、夕子は夫が勤めに出るやいなや、身支度を整え銀行に向かった。昨日の法事での兄の態度、その夜のしみったれた夫の言動に腹が煮えくり返り、まんじりともせず夜明けを迎えた。眠れないまま夕子は離婚のことを考えた。もうこれ以上一緒に生活していてもお互いに愛を深めることもなく、ただ単に法律上の夫婦であるしかないと覚悟した。
 それならいっそのこと離婚をして、子供の成長を楽しみに頑張ってみる方を選びたい、と思っていた。
「お久しぶり。実は一週間くらいお宅の離れに泊めてもらいたいの。そう、子供も一緒。いい? 訳は後で話すわ。え、ありがとう。良かった。六時ころになると思うわ。それじゃ」
 銀行の少し手前で夕子は親友に電話をかけた後、小学校六年の娘と五年の息子の携帯にメールを送った。
『午後五時半に駅で待ってます。母』
 それからの夕子の行動は早かった。銀行でしみったれた夫に返す三百万を夫の口座に振り込み、当面の生活のための費用を引き出した。その足で区役所に向かい、離婚届をもらってその場で自分の分を記入し捺印した。
 アパートに戻ってからは必要な衣類や子供の学用品などを段ボール箱三つと大きな紙袋に詰め込み、宅配業者を呼んだ。一時間後、業者に段ボール箱の発送を依頼し、しばらく卓袱台でボーッとした後、チラシの裏に夫宛の手紙を書き、離婚届の用紙を置いて家を出た。
 時間は瞬く間に過ぎた。もう二時近くになっていた。昼食を食べ損ねたことにようやく気がついた夕子は、姉の由加を呼び出すことにした。
「由加姉さん、私。出られる?」
「出られるけど、どうしたの」
「ちょっとね。駅前のファミレスで待ってるから来てくれる」
 三〇分後、姉妹はコーヒーを飲みながらお互いに昨夜のことを話した。姉は妹が離婚しようとして、今朝から動き回ったその素早さに舌を巻く思いだった。
「私は夕子みたいに離婚しようとは思わないけど、かと言ってもなんだか空しいのよね。せっかく大金が手に入ったのに」
「それじゃ、遣っちゃいないさいよ。私は子供と住むアパートの敷金なんかに残りのお金は消えてしまいそうだけど、パートでも何でもして頑張るわ」
「夕子は強い子ね。私はとてもそんなこと出来ないわ。どうしよう」
「姉さんだって強い女だよ。昨日法事で頑張ってくれたもん。姉さんも離婚しなさいよ、私みたいに。そうすれば今より充実した生活ができると思うよ。家で専業主婦に納まってるなんて今時、美徳でもないし、ただの時間の浪費だよ。あのお金で小さな商売だって出来るんだから」
「…………」
「義兄さんを信用してるんだね、姉さん。でも焼肉代で文句を言うようじゃ、うちのしみったれと変らないじゃないの。そうだ、今から銀行で三百万くらい下ろして義兄にあげるの。それをどう遣うかを見るのよ。姉さんにプレゼントの一つでもすれば、いいんだけども。どう思う?」
「三百万も。どうして私が旦那にあげなければならないの。雄介の入院代は私がOLの時に貯めたお金なのよ」
「そうだったの。それじゃ百万くらい渡せばどう? それで義兄さんが姉さんをどう思ってるか分かるわよ」
「それくらいなら構わないわ」
 由加は考えた末、百万円を下ろし、夕食後夫に渡すことに決め、帰りがけに夕飯の材料を買うことにした。夫のためにいつもより一品多くして、トロの刺身を買った。

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